お昼に雨と雷が凄かった。夕食時また、音がしたので雷かと思ったら猪名川の花火大会の音だった

桜並木に土手の上へ行って 花火を見た。誰が考えたのだろうエライ! きれいでみんなが喜んで見上げる 夏の夜空の風物詩だ。それに大阪の街の明かりが雨の後で いっそうキラキラと輝いている。六甲の100万ドルの夜景に負けないといつも思う。

★一時帰宅★半年ほど後の面会日に私があまりにも 痩せて顔色が悪く 髪の毛は シラミの卵でまるで白髪が生えたようになっていたのを両親が見て驚き 先生に一度家に帰して欲しいと頼み帰ることになりました。家へ戻って 少し元気になって やれやれと思った頃 戦争はいよいよひどくなり3月10日東京に大空襲があって 東京の街は爆撃でほとんど 焼野原になって 大阪も危ないと言われていました。なんとそれを聞いた次の日13日の夜中 警戒警報が出たとたんに アメリカのB29爆撃機が大阪へ現れ 私の家や周辺にも焼夷弾爆撃を受け あっ!と言う間に焼けてしまいました。私と母はすぐ近くの防空壕に入っていましたが そこにも火が入りそうで危なくなって 3月の寒い夜でしたが 二人とも防火用水(火を消すために所々に水溜が置いてあった)の水を頭からかぶって 火が走る道を飛び越えながら逃げました。私は恐怖で震えながらもどこへ行くあてもなく走りました。 水をかぶっていたので 火傷はしませんでしたが 熱気で防空頭巾やモンペは すぐ乾いてしまいました。途中で知らない どこかのやさしそうな小母さんが 「これを被って行きなさい」と親切に小さな布団を下さいました。そのお陰で空から落ちてくる火の粉を防ぐことが出来ました。逃げている間にも爆撃機から機銃掃射があり そのたびに建物の影に隠れました。怖いとか恐ろしいとか考える余裕もなくとにかく どこかへ逃げなくては・・・と走りました。丁度お寺の前の来ていましたので 母は、「こんな時こそ お寺は門を開けて人助けをすべきだ」と門をドンドンたたいて開けてもらい お御堂に入れてもらいました。逃げていた人々も次々と入ってきました。この時母はえらいと思いました。やっと夜が明けだして 空襲も終わりほっと一息つきました。私達は逃げる事で必死だったので 父の事を気遣うことも出来ませんでした。父は、隣組長をしていたので自分達の区域を守るため逃げる事が出来ませんでした。母は私に「お父さんを探しに行ってくるから ここで待っていなさい」と言って 家のあった焼け跡へ探しに行きました。母は、ひょっとして父は 焼け死んでいるかも知れないと覚悟して探しに行ったそうです。父は、責任感が強いので 皆が逃げて行くのに一人隣組の回りを守っていたそうです。しかし、何と言っても 凄い爆撃だったのでどうする事も出来なかったのです。3人の無事が分かり 家は焼け何もかも無くなってしまったが 生きていただけでも よかったと喜びました。