老人施設へのボランティアの帰り 雷が鳴りだし屋根のある所までハアハア言いながら久しぶりに走った

お盆過ぎたと言うのに今日も36度もある。ビオラの種や早や咲の種(ノースポール、バージニアストック、リナリア、冬知らずなど)を蒔いて 涼しい所と思って洗面所の床に並べて置いているが 温度が高いので うまく発芽するか心配だ。
 1944年には、アメリカの空襲がひどくなってきたので 学童疎開と言って町の中には 食べるものもないし、空襲が危ないので 田舎に親戚のある人は 家族でそちらへ行く人々もありましたが私は 田舎に親戚知り合いもなかったので 学校で決められた奈良県吉野山へ子供達だけ先生に連れられて行く事になりました。学年によって泊まる宿が分けられ 私達3年生は一番年下でしたので小さい宿でした。1人分の広さは 布団が敷けるだけの広さでした。朝6時に起きて布団を片づけて乾布摩擦をしてから 15分ほど歩いた所のお寺の寒い境内で ラジオ体操をして 教育勅語を皇居に向かって合唱しました。私達には、意味が分からないまま覚えさせられました。先生の「日本の兵隊さん達は よく戦って敵をやっつけて勝っている、だから君たち小国民(子供の事)は 兵隊さんのお陰を思い 何事も我慢して頑張るのだ!」などの話を聞いた後走って宿へ帰り部屋の掃除をしてやっと、朝食になります。朝食と言っても麦ご飯1ぱいと おたくあん2切れです。夕食でも麦ご飯とみそ汁ぐらいでした。時々鰯の干物とか かぼちゃの煮物が出たりした時はうれしかったものです。お八つには さつま芋のふかしたのとか、山で拾ってきた栗、椎のみでしたが 少しかもらえませんでしたので お腹もすくし家へも帰りたいのですが そんな事を言うと先生に叱られるので 誰も言いませんでした。昼間は 勉強をしたり、草抜きをしたり 行軍と言って丈夫な体になるために山道を歩かされたりしました。下着の洗濯、ゴムの入れ替え、ボタンつけなど する事が多くて 遊んだり出来ませんでした。時々両親に手紙を書く時間があって 手紙や絵を書いて先生に出してもらいましたが 辛い事などは 先生が見るので書けませんでした。両親からの手紙が何より楽しみでした。一番うれしいのは、家の人との面会日でした。あんまき、果物、着るものなど持って来てくれました。その頃は なかなか手に入らない物なのに あちこち探したり頼んだりしてやっと持って来てくれたのだと思います。