敗戦記念日に色々思いを馳せる。韓国の最近の動き 竹島問題など困ったものだ

20年近く前に 戦争を知らないお母さんが子供さんのために 話して欲しいと頼まれたので 遠い昔の事と 子供だったので正確には 書けないけれど・・・と言って子供さん向けに少し書いたのをちょっと 写してみよう。
 ★私の経験した太平洋戦争★
 1941年12月8日に日本が真珠湾攻撃をした次の年の4月に今まで小学校だったのが国民学校と呼ばれるようになりました。その時 私は 一年生に入学しました。大阪市内の上本町に住んでいました。戦争が始まったその頃は、中国、ホンコン、フィリピン、インドネシヤ、その他のアジアの国々に領土を広げようと攻めて侵略を続けました。日本軍の勝利が次々と新聞やラジオ、映画で知らされました。国を挙げて勝利の喜びで溢れていました。お祭りのように提灯行列なども行われました。
 しかし、1943年頃からは アメリカやイギリス、オーストラリアなどの連合軍の反撃にあって負け戦になってきました。だんだんと食べ物や着る物が なくなりました。私には 姉と弟がいました。姉は女学生でしたので 戦場で怪我をしたり病気になった兵隊さんの慰問やお手伝いに病院へ行っていました。兵隊さんの弾除け腹巻にする千人針と言って白い布に赤い糸で玉結びをしてもらうために 街角に立ってお願いをしたり 色々な物を手作りして 手紙を添えて 戦地の兵隊さんへ慰問袋として送っていました。その後 学生、女学生は 戦争に行ってしまった工員さん達に代わって 兵器などを作る工場へ行く様に命令されました。姉は無理をして頑張ったので体をこわしてしまいました。今だったらよい薬があるので治ったでしょうがその頃は、薬どころか 栄養のある食べ物もない状態だったので 姉は 17歳で死んでしまいました。弟は体が弱い方だったので 姉の病気がうつったのでしょう ひどい熱を出して 姉の後を追うように一月後に5歳で死んでしまいました。
 次は また明日に: