「肢体不自由者の理解」の講和を私の知人にお願いして ボランティアグループのみなさんに聞いてもらった

 彼(52歳)は 中学3年の時 プールの飛び込みで頭を打って 頚椎損傷になって 首から下の機能が全く失ってしまい 以後車いす生活になってしまった。私がヘルパーになり始めた頃 彼のお母さんの負担が大変だったので 手伝う事になった。その頃は ベットで寝たきり生活だった。コップ取るのも手で持つ事も出来ない。(今もそうだ)彼に頼まれて取って上げると にこやかに 「ありがとう」と いつも言ってくれた。その頃は まだ、ヘルパー制度が 今ほど知られてなく 人数も少なかったので 家族の負担が多かった。お母さんはまだ 妹さん、弟さんが 低学年で家族の世話と彼の介護でどんなに大変だった事か 彼も心苦しく思った事だろう。成人してからお母さんの負担を軽減するために 障害者が単身でも入れる団地に引っ越された。ここも偶然に私が担当していた女性の隣の部屋だった。ヘルパー、訪問看護師、ボランティアなどを利用して生活を始められた。昼間は電動車椅子障害福祉センターへ行き新しい制度など勉強された。そこで色々な障害を持った人達が生活に 彼だけでなく 不便を感じておられるのを知り 障碍者自立センターを立ち上げられて 今では たくさんの家事ヘルパー、ガイドヘルパー視覚障害の人のため)車椅子ヘルパーなどをNPOの事業所の代表理事長として頑張っておられる。あの寝たっきりで何も出来なかった彼の不自由はかわらないのに・・・・ 涙が出るほど えらい! 昨年結婚もされてうれしそうだった。本当におめでとう、よかったと思う。
 彼の話の中で私も思い出した。40代から50代にかけて私の両親が弱くて入退院をくりかえしていた。その頃は 今のように病院は 完全看護でなく家政婦をつけなくてはならなかった。経済的な負担は とても大変だった。退院しても まだ、ヘルパー制度がなく 彼のお母さんと同じように 介護に明け暮れた。私は独り子だったので 兄弟にも頼れず たとえ30分でもだれか手助けしてもらえたらと思った。古い時代の私たちの考えで 主人には 自分の親の介護は 気兼ねだった。そんな時近くに住む姑が 癌になり より大変だった。2か月違いで母、姑が亡くなった。2月ヵほどは ぼーっと空白状態になってしまった時 市の広報でヘルパーの募集が載っていた。「ああ、これだ!」自分がどんなに困った事か、役に立ちたい。すぐに応募した。市の方も初めての事だし 少なかった第1期生として 色々と優遇して沢山の経験実習をしてもらえた。18年程色々な 障害、病気の方々のお世話が出来て とても勉強になった。 少しは役に立ったのか 今だに お付き合いをしている何人かの人がいる。
 ソチでパラリンピックが始まった。障害を持ちながら頑張ってスキーやジャンプなどに挑戦されているのを見ると 心が痛むと同時に何と強い精神力なのだろうと メタルなど問題じゃないとも思う。それなのに オリンピックのメタル報奨金より3分の1、とか半分にするとか 何と言う差別に驚く。反対に障害を持ちながら頑張っておられる選手は 障害を持っている人々の励みになるのだから 2倍にしてもいいのじゃないか けしからん!!!