地震、津波の被災地へ社協のボランティア研修旅行として参加(21名)

 のぞみで東京へ 東北新幹線やまびこで一ノ関から貸切バスで移動。 陸前高田市市役所(仮設)で市長さんのお話を傾聴。市役所は全壊で三階まで津波が押し寄せ 市長は4階でかろうじて助かったそうだ。かなりの職員は亡くなった。市長の奥さんも亡くなったそうだ。
市街地が 神戸と同じで 海近くだったので ほとんど全滅。海岸べりに7万本の松があったのが 1本残して津波にやられた。奇跡の1本松だけが 廃墟の中に立っていたが、
この松も中から塩水で枯れてきた。復興の象徴として後世に受け継ぐために 京都で人工的な処理を加え、モニュメントとして保存することになった。海岸べりの陸地のかさ上げのため この山を削って 埋め立てますと 緑ゆたかな山を指して言われた。色々な鉄筋施設(学校、市役所、公民館、病院、ホテルなど)の残骸そして 建っていただろう 民家、商店などは 跡形もなく基礎の石の回りに 雑草が茂っていた。それだけ日時が経っているのだろうが
瓦礫の山積みだけが 残っている。全国の自治体の引き受けがいまだに 市民の反対があって引き受けられない現状だ。

震災のあった当時は 絆とか助けて上げようと 募金なども進んで皆やったのに 落ち着いてくると 現実に自分達の所は ごめんと拒否する。放射能の検査済みで安全と言うのに困ったものだ。大槌町社協の若い男性が 元は老人施設の職員だったそうで 津波の時 施設のお年寄りに 逃げるように手をひっぱったら「私はもう死んでもいいのだから」と歩かなかったので 負ぶって高台に逃げようとしたら しっかり抱きついたそうだ。やはり、人は 死ぬことの恐怖は 幾つになっても怖いものなのだ。説明などしてくれた社協の職員さん 「私は、家も家族も大丈夫だったので うれしかったのだが 罹災者のお世話していると 何もなかった者は なにか悪い感じさえあり辛い」と言われていた。泊まった民宿の女性オーナの息子さん 消防士で救助で亡くなったそうだ。宿も少し高台だったが 1階の天井まで津波が来たようだ。2階が残ったので 1階をすっかりやり直して 上等でないが何とか 泊まってもらえるようにしたそうだ。息子さんの事をくよくよしないで 忙しくしている方が気がまぎれるのだろう。

 この度の旅行のお世話をしてくれた うちの社協の職員2名とても 行き届いていた。さぞ、疲れただろうと思う。帰って早速 お礼状を出しておいた。一緒に行った私のグループの2人ともいい方で 夜、色々と昔の話や生き方の話など出来てよかった。